宇宙こぼれ話

虎野 第19回 昔の中国の射場

 今や一部の分野を除き日本を抜き去り宇宙先進国になった中国の昔のお話です。
時は1989年、ちょうど昭和から平成に移り変わるときに中国の射場調査団に同行した話です。
 最終目的地は中国の西の奥地にある西昌射場。もし行き着ければ日本人としては初めてとなる行程でした。

中華人民共和国ロケット発射基地の視察と
宇宙産業に関する技術交流団に参加しての感想

(注)黒字は元の文章そのまま(誤記修正はしています。)。赤字は今回追加した文章です。

本感想文は、「中華人民共和国ロケット発射基地の視察と宇宙産業に関する技術交流団」に参加して感じたことを思い出すままに書いたもので、内容については不正確な部分もあるので、他の団員の感想文を参考にして包括的に判断願いたい。
⇒ 本交流団の中国訪問は、昭和64年(西暦1989年)1月7日(土)から平成元年1月15日(日)にかけてであった。すでに32年も経過してしまった。この年月を加味してお読み願いたい。

1 中国科学技術交流中心主催晩餐会

 北京に到着した夜に中国科学技術交流中心主催の晩餐会が開らかれ、中国科学技術交流中心(「中心」は「センター」の意)、中国航空航天工業部及び国防科学技術工業委員会の方々と会食し、宇宙開発技術等に関する情報交換及び雑談を行った。この会に打上げ管制の指揮者(日本でのLaunch Control Directorに相当し、私が宇宙開発事業団に在職中に経験した職種であり、ロケット発射に関する作業指示を行う。)も出席されていた。
 我々の席の通訳は北京の科学技術交流中心副所長の李さんが引き受けてくれたが、食事の暇もないほどだった。メニューの中に北京ダックがあり、日本では高級品(中国でもそうらしいが)のためか、私を含めた皆さんが感激した(と思う)。
 会食が終わりレストランの出口で中国の記念切手集(1987年度版)を千円で売りつけられた(日本の感覚で安いと思ったため素直に千円を出した。)。史さん(今回のツアーの引率者。日本語が堪能な中国人女性。)の鑑定では本物とのことで安心。
 一時有名になった中国の育毛剤101が北京のホテルの売店(ホテル内ではなく、別のちょっと安普請の建物)にあり、160元で購入した。効き目のほどは確認中である。
⇒ 毛は生えてきたが肌荒れが激しく使うのを止めた。一方、ホテル内にある印鑑店で石の印鑑を購入し翌朝までに姓を彫ってもらったものは、今でも実印として使っている。これも確か千円だったように思う。品が良いのでもう一つ作っておくべきだったと後悔。

2 北京空港にて

 北京空港にて中国長城公司(長征ロケットを製造している会社)の偉い人3人と会い長城公司の業務内容の概要説明を受け、合わせて1989年に北京で開催されるIAFの参加も進められた。
 そもそも、当初の予定では北京発は夕方の予定であったのが朝の出発となってしまい、こういうこともあるのだなとこの時は思ったが、中国では度々あることが後になって分かった。
⇒ 現在の北京空港は(テレビで見る限り)とても立派な空港だが、当時は非常にごたごたしており、ちゃんと荷物が受け取れるのか心配だった。

3 成都にて

 ロシア製のジェット機(座席を全て前に倒すとフラットになり、荷物を積み込めるという。軍用を兼ねているようだ。)で四川省成都へ到着。雪の北京とはうって変わって樹木や畑の多い都市ではあるが、木々の葉は埃っぽいというか黒っぽいとの第一印象だった(当時の発電所は石炭を使っておりその煤煙が木の葉に積もったためで、指で葉をふき取ると緑が見えた。)。空港から中心街への道端には露店とビリヤード(台球)が目立つ。これ以降、中国各地でビリヤードが盛んであったことが分かったが、日曜日でもないのに日中から青年らが興じているが仕事は何だろう(余計なお世話か)。
 バスの運転手はクラクションを鳴らしっぱなしで走るが、自転車や歩行者は気にする様子もなく堂々と自分の道を進んでいるのが面白い。ホテルでは代表的な四川料理の麻婆豆腐が出なくて残念ではあったが、その代わり見た目で誰もが甘いだろうと思った激辛ピーナッツが食せた(翌日にこれが出たとき、これに手を付けた人はいただろうか)。これぞまさしく四川の味か。

4 成都から西昌へ

 成都空港で西昌行きの中国製ターボプロップ機(Y-7)に乗り込み1時間10分程度で西昌空港に到着した(上空からは十数機のミグ戦闘機が見えた。)。途中、大山脈を幾つか飛び越え、盆地は全て雲に覆われていたが、西昌(これも盆地)に入ると雲は一片も見当たらなかった。白人が一人同乗していたが、長征ロケットで打上げ予定のAUSSATの関係者とのこと(帰りも同じ飛行機だった。)。
⇒ 滑走路の長さが3,600mもある結構立派な空港で、なんと、あの蒋介石が台湾に逃れるため飛び立ったのがこの西昌空港だそうです。

 マイクロバスで中国西昌航天衛星発射中心賓館まで。途中、干上がった川を、橋を使わずに渡った(雨季はどうするのかな)。西昌の宿は民宿のようなところと聞いて各自その備えをしていたが、良い方に想像が外れ、ホテルと称してよい宿屋であった。ここで驚いたのは、部屋の鍵を宿泊者に渡さないことであった。必要なら各階の服務台の係員が開けてくれるシステムで、これなら部屋の中に鍵を忘れることもないなと感心はしたが、なんとなく割り切れない感じもした。

5 射場にて

西昌市内から水牛、豚、鶏の出没する道路を60km先の射場へ向かい、次の施設、設備を見学した。

・ロケット組立棟
ロケットの製造工場からロケットの発射基地(以下「射場」と言う。)のロケット組立棟へは鉄道で運搬し、横置き状態で各段及び全段の点検を行う。その後、車で射点(発射点)へ移動、各段組立と点検を行うとのこと。
 大きさは、高さ18m、幅25m、長さ100m程度で、3列ある線路の一つに長征3号の全段ダミー機体が置かれており、部屋の両側にチェックアウト室がある。天井には、50トン/10トンクレーンを設置。

(ロケット組立棟の全段ダミー)

・衛星試験棟
大きさは、高さ18m、幅18m、長さ42m(クレーンの有効高さ18m。16トンと32トン。)、クラス10万の清浄度を確保している(他にクラス1万の部屋もある)。衛星はどのように運搬して来るのか聞き損ねた。

・射点
整備塔:高さ約70m、全面扉が開放できる階が11階、射座とその上の階はほぼ開放状態。
発射台:脚は4本、組立・打上げ直前まで4本のクランプで第1段の下部を保持している模様。
アンビリカル:全てアーム構造。上から、衛星空調用(1本)、第3段慣性誘導装置搭載部分(2本)、第3段排気用(2本)及び充填用(2本)、第2段・第1段(各1本)。アームの離脱はX-10分。
火炎偏光板:火炎は地下に入り約10m横から地上に噴き出す方式。
推進薬貯蔵所:射点の両脇に煙突があるレンガ造りの建造物があり液体酸素と液体水素の貯蔵タンクが内部にあると推定される(説明では燃料貯蔵所との説明以上は聞けなかった)。近くの山にはトンネルが掘られており、そこも燃料貯蔵所との説明(NTOとUDMHの貯蔵所と思われる。)。配管は地上には見当たらない。アップレンジ側の地下にブロックハウスがあるとのことだが見せてもらえなかった。
避雷塔:3基設置されているようだ。


(整備塔)

・指揮コントロールセンター(JAXAのRCCに相当)
指揮管制室:正面に表示装置。真ん中に大型ディスプレー(計算機処理結果を表示)、両側にロケット、衛星、地上局の状況表示。表示装置の両側に40インチのプロジェクター、指揮卓の左にX-Yプロッター、右に速度プロッター。指揮卓は1列のみ、その後方にVIP席数列。特にディスプレーは、ギアナ宇宙センターにあるものより大きく、まして日本の20インチ程度のディスプレーとは大違いである。
⇒ 今の日本のディスプレーはこれらを凌駕しています。
飛行安全室:同じ部屋の中にあり、衝立で囲まれており内部は見せてもらえなかった。
⇒ とは言いつつ、次の説明箇所へ移動する際に衝立の隙間からのぞき込んだら、X-Yプロッターが幾つか見えた。また、各段の落下予想区域が示されており、第2段は台湾の西岸に落下するように見えた。
計算機室:中国製で冗長系を含め2系統あり、ロケットの飛行状況を各地上局とデジタル通信でリンク
(能力は、10,000,000 b it/sec)。  

(指揮コントロールセンター)

・西昌衛星発射中心通信センター
これは、西昌市内(ホテルの窓からも見える)にある。昨年3月に打ち上げた通信衛星と(東経66度の)インテルサットを使用しダウンレンジ局とのデータ通信を行っている。

・西昌TT&Cダウンレンジ局
通信センターから西昌市を挟んだ向かい側の丘の上にあったが、見学はできなかった。

6 技術交流会

 ホテルにおいて技術交流会が開催され、平木団長、松本コーディネータ、秋葉副団長の順で各々、種子島宇宙センター、太平洋スペースポート、鹿児島宇宙空間観測所について発表された。中国側から李西昌衛星発射中心総工程師、王同副工程師、ほか2名が参加され真剣に傾聴されていた。時間を変えて行われた情報交換会もそうであったが、中国側がしきりに時間を気にしている様子であり十分な質問ができなかったのが心残りであった。情報交換会の内容は、報告書に譲るが、機体到着から打上げまで、休日含み45日(組立棟内には30日以内)であること、ブロックハウス要員は30人以下(システムエンジニアを含む。全体では打上げ2時間前が最大で約1,000人。)であること、射場ではリハーサルを行わないことなどは、日本に比べると簡素化されているという印象を受けた。特にリハーサルを行わないことなどは(当時の)世界の打上げに必要だとされる整備作業の常識を逸脱しているように思う。
⇒ 保安距離は5kmとっているとのことだったが、1996年2月14日に長征3B型が打ち上げ時に爆発事故を起こし、射場近くの町は壊滅状態になった。
https://www.nicovideo.jp/watch/sm2309790

 実は、これ以外に現場の方々との意見交換会もあった。詳細は省くが、現場の指揮官は殆ど若い中尉だった。年のころは私がNASDAでLCDR(発射指揮者)をやっていたころの30歳前後。やはり現場は国を問わずこの世代が最適なのだろうと思った。

7 再び成都にて

 西昌から成都に帰って来て、行きに宿泊したホテルに再び泊まったが、またまた停電を経験した。海外旅行時にはいつも持ち歩いている懐中電灯がその目的を達した。停電復帰後も暫くエレベーターは使用できず、部屋のある12階と1階を階段で往復することになり、思わぬ所で運動不足が解消できた。また、先回の宿泊時には経験できなかった本場の麻婆豆腐(日本に比べ、更に多くのスパイスが含まれているようだ)が食せ、一同感激した(と思う)。
⇒ 成都のホテルのエレベーターは各階に止まると建物の床との段差が10cm程度あった。北京や広東のホテルではそのようなことはなかった。

8 海南島にて

 常夏の島であるべき海南島で、寒さに震えながらの海南大学訪問。非常に豪華なホテルのガラス張りの会議場での海南島副省長の鮑氏との会談等を行った。
宇宙関係については、白沙県に中国発射システムの追跡管制センターがあり、中国の12回の回収衛星打上げ(打上は酒泉、回収場所は四川)時の追跡管制を行い(仏MATRA、西独MBBと協力関係にある)、太陽同期軌道衛星の追跡も行ったとのこと。日本の太陽同期軌道衛星にも、地理的条件から協力できるとしている。また、気象ロケットの射場は海南島西岸にあり、観測例の少ない低緯度のデータを取得し、特に東南アジアの電離層の異常を解明したいとのこと。スペースポートについては、オーストラリアも自国に作りたい旨発言しているが、中国も海南島に作ることに積極的であるとのこと。また、中国の宇宙関係技術協力及びスペースポートの海南島設置を中央政府に進言したい旨発言があった。
東南アジア向けの自動車工場の進出誘致が日産自動車さんにあり、宇宙関係ではないがこれと、水洗便所用の汚水処理設備についてが、党交流団の近未来的商談であった。

9 その他

・中国の公務員は全て国家公務員でありその本給は150元(約6千円)で、このほか色々の手当てが付き250元程度と推定される。家賃は7元/月程度であり、自宅は所属する各団体(会社)が作り割り当てられるが、その確率は小さい(とはいえ、複数持っている人もいる)。運転手の給料は600元程度である。運転免許は取り難く、各団体が申し出ることにより許可されるがその数は多くない。運転免許の所持者は、退職後、個人の車が手に入ればタクシー運転手になる場合が多い。散髪屋は400元程度。医者は、公務員より少し良い程度である。

・工場の労働時間は一応8時間であるが、実質3乃至4時間程度とのこと。北京科学技術交流中心副所長の李さんの三菱重工業出向中(3ヶ月)の感想は、日本人はよく働くが付き合いで残業している人も多いのではないかとのこと。
 中国の昼休みは2時間。一度、日本流に1時間にしたが、時間内に職場に復帰せず数ヶ月で元に戻したとのこと。

・電話事情は非常に良くない(国内)。新旧のシステムが混在している。国内にかける場合は一度海外へかけそこを経由してかけてもらった方が早いとのこと。

・中国共産党以外の政党(設立は革命前)は、国民党革命委員会、民主同盟、農工民主党、九三学者などである。中国共産党以外の政党があるとは思わなかった。
⇒ とはいえ、それぞれのトップは共産党員が牛耳っているようだ。

・食事は全て中華料理であったが、不思議に飽きなかった。南へ下る程日本の中華料理の味に近くなったのは面白い。ただ、ご飯だけは、日本以外でおなじみのパラパラご飯で、お世辞にも美味しいとは言えなかった。

・空港などでは入り口付近には並ばず、ばらばらで待っているが、いざ改札となると来た順番通りに並ぶのはさすがと思った。また、みんな各個人用のウーロン茶の瓶(色んな用途に使われる瓶)を所持しているのも興味深かった。

10 まとめ

 中国は近くて遠い国とよく言われる。私もそう感じることが時々あったが、今回の旅行で近くなるべき国という印象を受けた(あくまでも当時の印象です。)。その理由の一つは、小さな国土で生きていかざるを得ない国、即ち資源はないが技術者等を豊富に持っている国と、大きな国としてその巨体を完全に利用できていない国、即ち資源はあるが技術者が不足している国が協力することによる効果は、計り知れないものがあると思うからである。
 また、共産主義国家という看板に比べ非常に自由な国(西昌の射場を除く)という感じがしたことや、元々、文化圏としては同じ中国文化圏であり、考え方そのものの基本構造は大きく違っていないことが理由として挙げられるのかもしれない。
 都市等の開発も盛んにおこなわれているが、資金不足があるとの話もあり、日本の資本を投入することによりその速度も早まると考えられる。訪問した町々は、数十年前の日本と現在の日本が混在しているような印象を受けた。超高層ビルの横に古い町並みがあったり、性能の良いエレベーターとそうでないエレベーター等はその例であろう。もっとも、日本でも同じようなところはあるが。
 射場については、規模の大小はあるが、見た範囲では他の国とさほどの違いはないという印象を受けた。ただ、整備塔内部やブロックハウスくらいは見せる度量が中国側にあってくれればと思った。外国衛星の打上げを請け負おうとしているかぎりは、この程度の開放は必要条件と思われる。
 一部繰り返しになるが、自転車の多さ、歩行者の度胸、夜でも街中ではライトを付けない自動車、ホテルの停電、飛行場の出口の簡素さ、飛行機の発着時間の度々の変更、常夏の島であるはずの海南島の寒さ等印象に残ることが多かった旅行であった。
最後になったが、中国科学技術交流中心及びテクノロジートランスファー研究所の皆様に御礼申し上げる。

 いかがだったでしょうか。昔の中国の射場の感覚はつかめていただけたでしょうか。
 このように、当時の日本のロケットや射場に比べやや遅れていた中国が、今や(深宇宙探査等の一部の技術を除き)日本を追い越してしまいました。この30年余りで何があったのでしょうか。
 私の答えは明確です。宇宙開発に投入した金額と人数の違いです。宇宙開発はお金がかかるのです。でも、私たちの未来には必須の開発分野なのだと思います。

取締役 虎野吉彦
(2021年12月)

虎野吉彦
執筆者
元顧問虎野吉彦